*1 ATOS:Autonomous Decentralized Transport Operation Control System
エスノグラファーの貢献領域の拡大
——生成AIの領域にエスノグラファーが参画するのは、今回が初めての試みだったそうですね。
篠倉 美紀(しのくら みき)
日立製作所 AI&ソフトウェアサービスビジネスユニット デジタル事業開発統括本部
篠倉
はい、そうです。AIエージェント開発チームから、「LLMに取り込みたいので、現場の隠れたノウハウを抽出して欲しい」と依頼を受けた時は、自分の業務ながら「エスノグラファーにはそういう関与の仕方があるのか」という新鮮な驚きがありました。
——取り組みの結果、試験で運用への適用可能性を検証する段階に達したわけですが、どのような気持ちでしたか。
篠倉
試行錯誤の連続でしたから、うれしかったですね。成果もさることながら、我々が社会に貢献できる場面が広がったことにもうれしさを感じました。これまでエスノグラファーが調査によって抽出したノウハウは、製品やシステム、業務プロセスの改善などにフィードバックすることが多かったのですが、今回の取り組みにより、抽出したノウハウを生成AIにフィードバックするという新しい活用の道が拓かれたので。
情報をAIが読みやすい形に加工
——試行錯誤の連続だったということですが、例えばどのようなトライアンドエラーがありましたか。
武内 献(たけうち ささぐ)
日立製作所 研究開発グループ Digital Innovation R&D
武内
きわめて大規模かつ複雑なシステムであるATOSについてしっかりと事前学習し、さらに、これまでの経験にもとづいて丹念に事前調整を行ったことにより、インタビュー調査自体は比較的支障なく進められました。現場のノウハウ抽出よりも苦戦したのは、抽出した情報を生成AIが学習しやすいようにデータ加工する工程でした。私たちは、1つのユースケースにつき数十件という設問と回答のセットを抽出したのですが、私たちが行う設問は主に複雑な業務プロセスの分解を目的にしたもので、JR東日本の指令員が障害発生時にAIエージェントに投げかけると考えられる問いとはかなり性質が異なっていました。開発者から、現状のままでは活用が難しいという指摘を受け、まず私たちは、ユースケースごとに数10件あるQ&Aセットの合計約100件を、指令員とAIエージェントとのやりとりを想定した形式にまとめ直しました。
さらに、それぞれのQ&Aは独立して存在するのではなく、その前後左右と結びついてストーリーを形づくっています。つまりそれぞれのQ&Aが、ストーリーの中で適切に使えるようにする必要がありました。例えば、「その次に」という言葉が出てきても、LLMは「その」が何なのか理解できません。そこで私たちは、「その」が何を指し示すのか、さまざまな条件ごとに明確な説明をすべてのQ&Aに対して付加していきました。こうしたAIネイティブな形へのデータ加工は、とても時間と労力が必要な工程でしたが、我々がこれから生成AI分野で活動するうえで大きな知見を得ることができました。
判断プロセスの抽出
——プロジェクトが本格化する中、見えてきた課題というものはありますか。
篠倉
この段階での課題は、「ノウハウ抽出の効率化」でした。その課題に対し、我々は「判断プロセスの汎用化」を行うことで解決できないかを試みました。
ここまでに5つのユースケースについて現場のノウハウを抽出しました。それらを俯瞰して捉えると、日立の熟練エンジニアにはある程度共通する判断プロセスがあるのではないかという仮説が見えてきました。例えば、Aというアラートが出てからBという対応をとるまでに、発生アラートやシステムの構成が駅ごとに異なるものの、熟練エンジニアたちは自身が持つ知見やノウハウを使って、まず正常箇所と異常箇所を切り分け、次に障害の種類と問題のある装置を推定し、さらに障害が及ぼす影響範囲を見極め…というような判断をほぼ無意識にたどっています。私たちは、この長年の経験知に裏打ちされた判断ロジックを異なるアラート、異なる駅でも適用できる判断プロセスとして整理することで、ノウハウ抽出の効率化を図ることができました。現在、この判断プロセスをLLMに取り込むためのデータ加工の方向性も見えてきています。
複数のユースケースを俯瞰し、熟練エンジニアの判断プロセスを抽出。
OT向け生成AIの進展に貢献
——生成AI分野におけるエスノグラファーの参画は、まだ始まったばかりです。これから先、どんな挑戦を見据えていますか。
武内
ノウハウ抽出を実践できる人財の育成が、これからいっそう重要なテーマになります。そのために我々はいま、今回のプロジェクトで得た知見やリサーチの進め方などを組織で活用できるアセットとして蓄積・整備しています。この取り組みを、生成AI分野への対応力強化につなげていきたいと考えています。
篠倉
今回、日立の熟練者にインタビュー調査を行い、さまざまなノウハウを抽出しましたが、熟練者本人が言語化することが難しい、脳内の深いところにある「暗黙知」の抽出にはまだ到達できていないと感じています。言語化が難しい暗黙知は、対象者が無意識のうちに行っている行為を第三者が観察することによって抽出することができると考えています。
今後、このプロジェクトにおいて、言語化が難しい暗黙知の抽出にも挑戦していきたいと考えています。そして、その結果をAIエージェントに学習させることでLLMがどれだけ賢くなるのか、非常に興味のあるところです。
熟練エンジニアのリタイアが進みつつあるいま、社会インフラを支える制御システムの安定稼働をどう維持するかはATOSだけでなく、OT分野全体の喫緊の課題となっています。その有効な解決策となりうるのが、熟練者が持つ隠れたノウハウや暗黙知を抽出し、生成AIを介してシステム運用に生かすことです。私たちエスノグラファーも、その取り組みに全力で貢献していきたいと考えています。

篠倉 美紀(しのくら みき)
日立製作所 AI&ソフトウェアサービスビジネスユニット
デジタル事業開発統括本部
Data & Design Design Studio Design Co- Creation
日立製作所にて、情報システムや建設機械などの現場にある課題を調査によって抽出する、デザインリサーチに従事。2017年に建設機械向けIoTクラウドソリューションを事業化。2019年より、顧客構想活動でデザイン思考を実践するとともに、人財育成を推進。2024年より、生成AI関連プロジェクトに参画。

武内 献(たけうち ささぐ)
日立製作所 研究開発グループ Digital Innovation R&D
デザインセンタ ストラテジックデザイン部 SDD6ユニット
日立製作所にて、主に鉄道や電力などの社会インフラ領域の現場にある課題を調査によって抽出するデザインリサーチに従事。プロジェクト実践を通じて得た知見をもとにした、デザインリサーチの手法研究にも携わる。2024年より、生成AI関連プロジェクトに参画。