*1 ATOS:Autonomous Decentralized Transport Operation Control System
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ATOSのAIエージェント開発に参画したエスノグラファー
——「東京圏輸送管理システム(ATOS)」のAIエージェント開発において、「エスノグラファー」の皆さんが重要な役割を果たしているそうですね。ただ、このエスノグラファーという言葉は、あまり聞き慣れない方も多いかと思います。
武内 献(たけうち ささぐ)
日立製作所 研究開発グループ Digital Innovation R&D
武内
エスノグラファーは、観察調査のスペシャリストをさします。そして、その調査手法をエスノグラフィ調査と言い、もともとは文化人類学において、対象となる人々や組織の現場に入り込み、観察やインタビューを通じてその行動・価値観・文化を深く理解するために行われてきました。日立は2003年から、ソリューション開発の上流工程にエスノグラフィ調査を取り入れ、金融、製造、建設、物流、医療といった国内外の幅広いドメインにおいてお客さまの現場に隠れた課題の顕在化に取り組み、その実績は約200件にのぼります。
例えば2009年には、英国で運行されている高速鉄道車両Class395の保守業務においてエスノグラフィ調査を実施しました。現場の隠れたノウハウを抽出し、それらをITで支援するソリューションを創出するなど、保守員のパフォーマンスの向上を支援しました。
——今回のATOSでのAIエージェント開発に、エスノグラファーはどのように貢献したのでしょうか。
武内
まず、JR東日本と日立が実現をめざしているATOSのAIエージェントについて説明します。ATOSは、首都圏の列車を安全・正確に運行させるために用いる世界最大規模の鉄道運行管理システムです。万が一ATOSにトラブルが起きた場合、指令員は監視画面に表示されたアラートや現場の情報、装置の写真などを手がかりに原因特定から復旧、影響範囲の確認を行います。現在指令員は、こうした確認をマニュアルや障害対応履歴などのドキュメントをもとに行っています。しかし、文書の情報では解決できないケースも少なくなく、そうした場合には開発元である日立の熟練エンジニアに協力を依頼するなど、復旧に時間を要するケースも発生していました。現在開発中のAIエージェントは指令員による障害対応を支援し、復旧の迅速化をめざすものです。
熟練者へのエスカレーションを減らせるよう、指令員の問い合わせに対してさまざまな情報を提示する仕組みを描いており、私たちはその実現に向けて、日立の熟練者が持つノウハウを掘り起こし、AIが活用できるようにしています。
回答精度は、実用可能な水準に達する見通しが立つまで向上
——今回、本プロジェクトに参画するに至った経緯を教えてください。
篠倉 美紀(しのくら みき)
日立製作所 AI&ソフトウェアサービスビジネスユニット デジタル事業開発統括本部
篠倉
日立のAIエージェント開発チームは当初、日立が保有する障害報告書など既存のさまざまなドキュメントをLLMに取り込み回答させたのですが、それだけでは業務に適用できるレベルには達しませんでした。そこで「マニュアルにはない現場のノウハウが重要なのでは?」と仮説を立てたAIエージェント開発チームの要請により、私たちはATOSに精通した日立のエンジニアの復旧対応業務に対してインタビュー調査を行いました。その結果、長年現場に蓄積された隠れたノウハウを数多く拾い上げることができ、それらをLLMに取り込むと回答精度は実用可能な水準に達する見通しが立つまで向上しました。ATOSの中の特定の装置、障害ケースに限定した検証で運用への適用可能性を検証する段階に達しており、このプロトタイプをJR東日本に提案したことが共同検証の合意へと話が進む一助となりました。
判断と判断のかい離をつないでいく
——調査は具体的にどのように進められたのでしょうか。
武内
今回、私たちはまずATOSに関する基礎的な知識を習得し、そのうえでより効果的な調査手法としてインタビュー調査を主軸に進めることを決めました。インタビューの対象者は、ATOSの開発拠点である日立 大みか事業所の熟練エンジニアです。
インタビュー調査では、実在した障害復旧のユースケースから重要なものをピックアップしました。そこで実際に行った対応を、事前に用意した資料を提示しながら、あるいは大みか事業所のATOS試験場でテスト機を確認しながら、できるだけ具体的に聞いていきました。例えば、「○月○日の○時○分、監視画面にこのエラーコードが表示されました」という場面を提示し、「そのとき何をしましたか?」と一つひとつ順を追って細かく確認していくのです。
すると、熟練者は頻繁にマニュアルには書かれていない対応をしており、私たちが事前に学習した内容とも一見つじつまが合わない行動も見られました。そこで、「どうしてその判断に至ったのですか?」などと聞いていくと、「通常はAの状況だけど、このランプが点滅している場合に状況はBであることは明らかだから」、あるいは「この装置のこの障害の場合、影響範囲は広いはずなので、Cという対応を取る方が確実」など、初めは何のつながりもなく見えた対応も、実は経験知による判断が介されており、何らかの判断ロジックにもとづいていることが見えてきました。
エスノグラファーによる調査は、実際に行った対応を一つひとつ順を追って聞いていく形で進められた。
現場に隠れたノウハウを発掘する
——話を聞いて、やはり文書化された情報だけでは十分な精度の回答は難しいと理解できました。
篠倉
現場のノウハウを取り入れる前のLLMは、ドキュメントに記載のある範囲内でしか回答できず、例えば、「そこでどのような事象が起きているのか」、「その障害によってどのような影響があるのか」などの情報が抜け落ちていました。ATOSのようなミッションクリティカルなシステムでは、アラートに対してこうした具体的、かつ詳細な情報を加えることが故障箇所や原因を判断するために重要です。社会をささえるインフラ制御システムでAIエージェントを活用するためには、熟練者のノウハウをLLMに組み込むことは欠かせないのではないでしょうか。
——なぜ現場には、ドキュメントに記されない隠れたノウハウが蓄積してしまうのでしょうか。
篠倉
現場での判断や対応は、各機器の状態、時間的制約、周囲の環境など、その瞬間の状況に大きく左右されます。特にATOS のような大規模システムにおいては、こうした状況のバリエーションは数多くあり、すべてを網羅的に文書化するのはほぼ不可能です。結果として、貴重なノウハウは文書に残らず、それが隠れたノウハウとして現場に蓄積されていくのだと思います。それを発掘するのが、エスノグラファーの仕事だと考えています。
——生成AIで活用するための現場のノウハウの抽出は、エスノグラファーの得意技なのでしょうか。
篠倉
生成AIアプリケーションの開発にエスノグラファーが参画するのは、今回が初めての試みでした。そのため、このプロジェクトでは多くの試行錯誤に直面しましたが、今後につながる多くの知見を蓄積することができました。
——後編では、このプロジェクトでの試行錯誤や学びについて聞いていきます。

篠倉 美紀(しのくら みき)
日立製作所 AI&ソフトウェアサービスビジネスユニット
デジタル事業開発統括本部
Data & Design Design Studio Design Co- Creation
日立製作所にて、情報システムや建設機械などの現場にある課題を調査によって抽出する、デザインリサーチに従事。2017年に建設機械向けIoTクラウドソリューションを事業化。2019年より、顧客構想活動でデザイン思考を実践するとともに、人財育成を推進。2024年より、生成AI関連プロジェクトに参画。

武内献(たけうち ささぐ)
日立製作所 研究開発グループ Digital Innovation R&D
デザインセンタ ストラテジックデザイン部 SDD6ユニット
日立製作所にて、主に鉄道や電力などの社会インフラ領域の現場にある課題を調査によって抽出するデザインリサーチに従事。プロジェクト実践を通じて得た知見をもとにした、デザインリサーチの手法研究にも携わる。2024年より、生成AI関連プロジェクトに参画。