大阪市の学校教育を支える巨大プロジェクトの幕開け
文部科学省が推進する「GIGAスクール構想」は、一人一台の学習者用端末を用意するなど、デジタルを活用して子どもたちの可能性を引き出す学びの実現をめざすものだ。しかし、その取り組み前夜から初期である2018~2019年頃、日本最大規模の自治体である大阪市は大きな課題に直面していた。
当時、同市はタブレットなどのハードウェアという「点」の配備は先行していた一方で、それを利用するための情報インフラという「線」や「面」が不足している状態にあった。最先端の端末を活用するための土台が、実は未整備だったという現実。この大きなギャップこそが、単なるICT環境の整備から「次世代ICTへの高度化」を掲げ、2023~2024年前後からのGIGAスクール構想第2期を見据えたインフラ抜本改革へと舵を切る原点となった。
その最前線にいたのが、改革の旗振り役として構想を描いた大阪市教育委員会事務局(2024年当時)の河野 善彦氏だ。本稿では、その大きな構想に応える形で教育現場の負担軽減とICT利活用の未来をめざし、巨大プロジェクトを推し進めている日立製作所(以下、日立)の営業 山田 恭平、SE 芝野 功一郎ら中心メンバーの取材を通して、改革の全貌を探る。
GIGAスクール構想、端末配備の先にあった「次なる壁」
―― GIGAスクール構想の第1期で各校に端末が配備された一方、課題もあったのですね。
河野氏
めざすべき姿の模範回答としては、これまで紙ベースだった情報をデジタル化し、先生がパソコン一台で授業も校務も円滑に行えるようにすることです。ただ本音を言うと、第1期の取り組み初期の現場ではICTの活用方法が十分に理解されていませんでした。理想と現実に、例えるなら「江戸時代に高速道路を通そうとする」ほどのギャップがあったのです。ですから「めざすべき姿」の前に、まず「できることから始める」。ここがGIGAスクール構想の第2期に向けた大阪市のスタートでした。

芝野
システム全体の構想を描く以前に、インフラの情報が整理されていない。ここから変えていこうと考えたのですね。
河野氏
当時の学校現場は、たった100メートル先に有線LANを引くことさえままならない状況でした。なぜなら、島ハブ(スイッチングハブ)*1が故障していたり、どこにどういう端末があるかの情報が全く管理されていなかったりしたからです。運用も各学校でバラバラでした。
*1 通信ネットワークにおいて中継を行う装置の一つ
山田
GIGAスクール構想が本格化する前の2018~2019年頃の話ですから、ある程度は仕方ない部分もあるでしょう。しかし、そのような脆弱(ぜいじゃく)な土台のまま第1期の端末配備が進んでしまったため、理想と現実は見えていても、その間をどうつなげばいいのか、つなぐために何が必要なのか分からない状況ですよね。
河野氏
そうですね。実はGIGAスクール構想が始まる前から各学校には2~3クラス分(80~120人分)のタブレット端末があり、市では何万台もの端末をMicrosoft Excelで管理している状態でした。そのためネットワーク障害が起きても、どこに原因があるのかすぐには分からない。学校から「つながらない」と呼ばれて現場に駆け付けて、そこから原因箇所を探し始める状態だったのです。
先生方が午前中の45~50分間の授業中に困っていても、私たちが到着するのは昼過ぎ。タブレットを利用した授業はとっくに終わっていて、先生はデジタル機器を使った指導を諦めている……そんなことが日常茶飯事でした。ですから、いざGIGAスクール構想で全員に端末が配備されても「宝の持ち腐れ」になってしまうと考えました。
「断られ続けた」大阪市 手を挙げた日立が目の当たりにした課題
河野氏
私が大阪市教育委員会事務局に着任したのは、GIGAスクール構想が発表される直前の2019年でした。現状を目の当たりにして早々に強い危機感を抱き、この状況を共に変えられるパートナーを探し始めました。しかし、プロジェクトの規模と複雑さから、私たちの視点で物事を考えてくれる事業者になかなか出会えませんでした。複数社に声を掛けましたが、「断られ続けた」というのが実情です。
各校のネットワーク構成図さえなかった当時、私は「教育情報セキュリティポリシーに関するガイドライン(第1版)」に沿うようにネットワーク環境の一新を2年で実施することを求められていました。そのため、まずは半年という短期間で市内の校園、約500拠点(小中学校・高等学校・幼稚園など)を回って現状を把握する必要がありました。このオーダーも、パートナー探しが難航した要因でしたね。実現できる事業者がいれば、手続きも含めてスムーズにプロジェクトは進むのですが、大手企業はもちろんどこの事業者に聞いても「できない」と断られ続け、まさに“どん詰まり”の状態でした。
そんな中、当初は他の事業者と同様に頭を抱えながらも、最終的に「やれます」と手を挙げてくれたのは日立さんだけでした。
芝野
私はこれまで、大阪市の市長部局のネットワークインフラを担当してきました。市長部局では「どこにどういう機器が置かれているか」といった構成管理が徹底されていましたが、当時の教育委員会ではそうした管理が十分にされていませんでした。問題が起きても、どこの何を調べればいいのか全く分からない。これはまずいと河野さんからご相談いただいたことが始まりでした。

山田
営業としては、このお話を受けた当初「日立にとって大きな挑戦になる」と感じました。それまで私たちには、自治体の教育委員会での大規模なネットワークの構築実績がほとんどなかったためです。社内の事業化承認を得るためには、「なぜ日立がやるのか?」を丁寧に説明する必要がありました。大阪市の課題を解決することは、日本の未来を担う子どもたちのため、社会課題の解決のためなのだと、信念を持って説明したことを覚えています。
芝野が言うように、日立には市役所や区役所における大規模なネットワーク調査と管理を手掛けた実績があったので、そのノウハウを応用すればお役に立てるという自信もありました。

河野氏
とはいえ実際に動き出すと、日立さんにとって想定外なことも多かったのではないですか。
山田
現状を把握するために大阪市内の約500校を調査しましたが、サーバールームなどのIT環境が整備されていないケースが見受けられ、戸惑うことも多かったです。
芝野
ネットワーク機器がポリバケツの中に置かれていたり、廊下の途中にハブがあったりなど、学校現場での運用がまだ統一できていないことを目の当たりにしました。
河野氏
そんな状況下で、日立さんと一からネットワーク図面を作り直すところから始めました。
教職員の負荷となった「ID管理」と「ネットワーク分離」
―― 最も解決したかった課題は何でしょうか。
芝野
一言で言うと、教職員の方々の「日常的なストレス」です。学校のネットワークには生徒たちが使う「学習系」ネットワークと教職員が成績処理などで使う「校務系」ネットワークがあります。これらはネットワークが分離されており、先生方は1台のパソコンを使っているにもかかわらず、「学習系」IDでログインした後、校務をするために仮想化環境にアクセスしてから、別の「校務系」IDで再ログインしなければなりませんでした。実質的に2つの異なるシステムを行き来する状態になっており、非常に手間がかかっていたのです。
河野氏
この「パソコンは1台だけど使うIDとシステムは異なる」という運用は利便性を下げていました。ただ実はこの仕組み、2019年度のネットワーク更改時に、「あえてIDを統合しない」という判断を下した結果なのです。
山田
企業なら「統合IDにしましょう」という話になりますが、そこには戦略的な理由があったのですね。
河野氏
当時、「校務系」システムはID基盤を含めて特定ベンダーが構築・運用を一手に担っていました。そもそも、ネットワーク更改前は「学習系」「校務系」のパソコンが別、IDもそれぞれに用意されている状態だったため、もしあのタイミングで「学習系」IDまで統合すると、システムの根幹が特定の仕様に依存し、将来の移行が困難になる「ベンダーロックイン」に陥るリスクがありました。そこで、これまで通り2種類のIDをあえて分け続けたまま運用することを選びました。将来、公平な仕様で再構築できるタイミングを待つためです。ロックインを避けつつ基盤を統一する仕様については、2020年になって描きました(詳細は後編を参照)。
芝野
教職員の方々にとっては、IDが統合されている方が利便性は高い。しかし、1つのIDで複数のシステムにアクセスできるようにするということは、重要な生徒情報などが漏えいするリスクが高まるということでもあります。そこで必要だったのが、場所や回線を問わず全てのアクセスを検証する「ゼロトラスト」の考え方でしたね。
河野氏
今、日立さんと進めているGIGAスクール構想の第2期のネットワーク環境は、ゼロトラストの思想をもとにした仕組みを取り入れています。ただ、文部科学省の「教育情報セキュリティポリシーに関するガイドライン」には、厳密には「ゼロトラストを取り入れなさい」とは書かれていません。自治体側がどう解釈するか委ねられている部分が多い。
―― それもあって、教育現場では何が課題なのか、何が必要なのかが把握できていない例があるのですね。
河野氏
ゼロトラストという新しいソリューションを取り入れた「理想」環境は、足元の回線や機器が貧弱では機能しません。強引に導入を進めるのではなく、まずは現場の実態を把握し、物理インフラを実用レベルに引き上げることから始める必要がありました。その上で、インフラ管理者の視点で「裏側の仕組み」を根本から設計しました。たどり着いた答えは、「学校だから」という制約を取り払うこと。オフィスや家庭と同じように、シームレスかつ安全にテクノロジーを使える環境、それがめざすべき姿でした。
山田
学校においても企業と同等レベルの環境を整えることで、生成AIやクラウドなど最先端のサービスを自然に使えるようになり、それがひいては次世代の子どもたちのより良い学びにつながります。
芝野
GIGAスクール構想はネットワークだけでなく、私たちが手掛けるシステムにも関係します。河野さんや教育委員会事務局のコンサルティング事業者と、ネットワークの構成管理から少しずつ議論を続け、ソリューションを組み合わせた提案を重ねて7年後、8年後をイメージできるようになりました。ただ、対象は児童生徒と教職員を合わせて約20万人の規模です。その困難さは容易に想像できましたが、教職員と生徒たちがICTを活用している未来を考えつつ、システムやインフラを再構築する――そこに技術者としての使命も感じていました。
―― 大阪市の教育現場から物理的で制度的な「壁」を取り払い、教職員の働き方を、そして子どもたちの学びをより自由で創造的なものへと変革する。この壮大なビジョンを約20万人規模で実装するためのパートナーとして名乗り出た日立は、いかにしてこの難題に挑んだのか。後編では、理想を具現化するための設計思想と、日立が大阪市のパートナーたる理由に迫る。
「【後編】約20万人の“教室”を支える「人間力」 大阪市が教育DXを日立に託した理由」はこちら >

河野 善彦(こうの よしひこ)
大阪市こども青少年局 企画部 総務課 兼 大阪市福祉局 生活福祉部 福祉システム課 担当係長
入庁後、システム関連とは疎遠な事業部局へ配属。
2011年度 総務局(現デジタル統括室)へ配属。ネットワーク運用から担当をスタート。
2016年度 総務省が指示するLGWAN接続系ネットワークの構築の主担当となる。
2019年度 教育委員会事務局へ配属。文部科学省が提唱する教育情報ネットワークセキュリティガイドラインに沿うネットワーク構築を担当。構築後は最新のセキュリティガイドライン内容を盛り込んだ次期ネットワーク環境の構想を検討。
現在、こども青少年局にてデジタル庁等が推し進める標準準拠システム・特定移行支援システムを担当している。

芝野 功一郎(しばの こういちろう)
株式会社日立製作所
公共システム営業部 自治体ソリューション第三本部 西日本公共システム第一部 主任技師
入社以来、自治体向けインフラ基盤の設計構築および運用保守を担当。ネットワークからクラウド、セキュリティに至るまで幅広い分野のインフラ基盤案件に従事してきた。2016年度には大阪市LGWAN接続系ネットワーク構築プロジェクトのPL(プロジェクトリーダー)を、2020年度には同市のネットワーク再整備プロジェクトのPLを担当。現在は、大阪市教育委員会ネットワーク再構築プロジェクトにてPM(プロジェクトマネージャー)を務めている。

山田 恭平(やまだ きょうへい)
株式会社日立製作所
関西支社 公共システム営業部 第一グループ 部長代理
入社以来、日立製作所関西支社で自治体向けのシステム営業を担当。2016年度、海外における社会イノベーション事業の営業として、1年間の日立アジア(ベトナム)社への出向を経て、関西支社に帰任。2017年度より現在に至るまで大阪市を担当。デジタル統括室、教育委員会事務局を中心とした大阪市に対するICT、DX関連ソリューション提案に従事。
商標注記
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