高齢者の移動手段の確保は、多くの自治体にとって最重要課題の一つとなっている。支援策として広く導入されてきたのが、バスやタクシーの利用に用いる「紙の助成券」だ。しかし発行と配布に加えて、使用済み券の回収や集計、精算や管理といった運用負担が自治体と事業者、利用者に重くのしかかっている。
こうした課題に対して、徳島県石井町は日立製作所(以下、日立)と共に、本人確認に顔認証を使ったタクシー券のデジタルチケット化の運用実証を2025年10月1日からスタートした。石井町が直面してきた課題と、導入に踏み出した背景をキーパーソンに聞いた。
「交通空白」が生まれかねない町で、高齢者の移動手段をどう確保するか
徳島県東部に位置する石井町は、徳島市のベッドタウンとして開発が進んでおり、公共施設や商業施設、医療・福祉機関などがコンパクトにまとまった町で、「太陽と緑の環境都市」を将来ビジョンに掲げている。
そんな石井町も、全国的な少子高齢化の波に直面しており、中でも高齢者の移動手段の確保は最重要課題だ。石井町役場の佐野 千里氏は次のように話す。

石井町役場 佐野 千里氏(石井町 長寿社会課 課長)
「運転免許証の自主返納や身体的な事情、体力などが原因で自力での移動が困難になる高齢者が年々増加しています。一方で、公共交通機関の利用者は減っており、路線の維持が難しくなるなど『地域の交通空白』が生まれかねない状況です」
公共交通のサービスレベル維持が課題になる中、移動手段が限られる高齢者の外出が促されず、健康面の影響も懸念されている。こうした課題に対応するため、多くの自治体は高齢者の移動促進施策としてバスやタクシーの利用料を助成している。石井町も同様だ。
「移動手段がなくなると、単に買い物が不便になるだけではありません。高齢者の外出機会を奪い、健康状態の悪化や社会的な孤立にもつながります。住民が住み慣れた地域で安心して暮らすためにも、ドア・ツー・ドアで移動できるタクシーなどの個別輸送手段を支えなければなりません。これは、自治体にとって急務でした。外出支援を真に必要としている方ほど、役場の窓口に来ることさえ難しいという現実もあります。そのため、高齢者と日常的に接するケアマネジャーや民生委員の方々を通じて、住民の切実な声を拾い上げてきました」と佐野氏は振り返る。
石井町が取り組んできた紙の助成券を用いた「高齢者等外出支援事業」の対象者は75歳以上で、約2700人いる。バスやタクシーの助成券のうちタクシー券はスタート時の登録者が600人だったが、2025年度の登録は現時点で900人まで増えた。佐野氏は、「制度を持続可能なものにするためにも新たな仕組みが必要だと感じていました」と強調する。
年間1.5万枚超の紙券が突き付けた、三者それぞれの限界
石井町が配布してきた紙の助成券は、制度として一定の役割を果たしてきた。しかし、紙であるがゆえの事務負担とリスクが自治体とタクシー事業者、利用者にとって限界に達していた。
石井町は、タクシーだけでも年間1.5万枚以上の紙の助成券を扱う。発行や印刷、配布のコストに加えて、使用済み券の回収と集計、そして請求書との照合や確認に膨大な時間がかかっていた。本事業は年度ごとの更新となるため、利用者が「なくさないうちに早めに使いたい」と考える4、5月は利用が集中する傾向にあり、繁忙期にはタクシー事業者から1社当たり数千枚もの券が届く。紙の助成券は100円券と300円券の2種類あり、1人25枚ずつ合計50枚が配布されるため、その組み合わせは膨大だ。

石井町役場 龍門 奈都氏(石井町 まちづくり推進室 主事)
負担は事後の集計業務だけではない。「紙の運用は単年度事業のため、新年度の4月1日から使うには一度役場の窓口に来て申請していただく必要がありました。住民の方にとっても対応する職員にとっても、毎年4月に窓口に申請者が殺到するのはかなりの負担でした」と、石井町役場の龍門 奈都氏は話す。
石井町役場でDX推進を担う藤本 洋一郎氏も、こうした運用に課題を感じていた。「何百枚、何千枚もの紙チケットを管理するのは非常に大きな手間と時間がかかると、担当部門から聞いていました。紙ベースでは『誰が・いつ・どこへ』移動したのかを追跡できないため、せっかく発行してもログが取れません。結果として、利用状況などのデータを他施策に生かそうとしても難しいという課題もありました」
タクシー事業者も同様だ。利用者から受け取った紙の助成券を口座振り込みまで保管し、役場に申請しなければならない。日々、運転手が集計して経理が月末にまとめて精算申請を行っている。助成券のおかげでタクシーの利用は増えたものの、会社としての負担もまた増えていた。
利用者は外出のたびに紙の助成券を持ち歩き、枚数を確認する必要があった。外出時に持ち忘れた場合は全額、現金で支払わねばならない。こうした煩わしさに加えて、紛失のリスクも常につきまとっていたという。
「高齢者には難しい」を前提にしない決断
石井町が次に向き合ったのは「デジタル化」のハードルだった。利用者が高齢者である以上、「デジタル機器の操作は難しいのではないか」という懸念は避けられない。

石井町役場 藤本 洋一郎氏(石井町 まちづくり推進室 室長)
藤本氏は「正直なところ、当初はデジタル化によるアプローチでは高齢者に利用してもらえないのではないかと考えていました」と吐露する。
石井町から相談を受けた日立の平塚 竜基は、次のように振り返る。「スマートフォン操作を前提にするとかえって利用者の負担になり、外出支援という本来の目的を損なう恐れがありました。だからこそ、何も持たずに済む『デバイスレス』な仕組みが不可欠だと考えたのです」

日立 平塚 竜基(日立製作所 金融デジタルイノベーション本部 第三部)
こうして日立は、顔認証の仕組みを用いたデジタルチケットを石井町に提案した。提案を受けたときの印象について藤本氏は、「顔認証であればスマホの操作はおろか、ICカードなどを持ち歩く手間も不要です。これなら、デジタルが苦手な高齢者にも抵抗なく受け入れていただけるのではないかと直感しました」と語る。
しかし、自治体が住民の生体情報を扱う以上、万全のセキュリティ対策が求められる。導入の後押しとなったのは、日立の「PBI」(PublicBiometrics Infrastructure:公開型生体認証基盤)
だった。PBIは、パスワード不要で生体情報のみで認証する日立の独自技術だ。生体情報を安全に管理し、プライバシー保護とセキュリティを両立させる特徴的な技術となっている(PBIの詳細は後編を参照)。
藤本氏はこう強調する。「インターネット環境さえ整えれば高度なセキュリティと認証の利便性を両立できる点を評価しました。単なるデジタル化ではなく、現場の運用と高齢者の使いやすさを踏まえた提案だったことが決断につながりました」
動き出した、「利便性」「安全性」を両立させる仕組みづくり
こうして石井町は、日立との協創を通して紙の助成券の限界を超えることをめざした。狙いは単純なデジタル化ではない。最大の懸念だった「高齢者のデジタル不慣れ」を、“顔パス”という操作不要な体験に変えること。同時に、公費を投じる自治体事業として不可欠な「厳格な本人確認」と「個人情報の安全性」を、確かな技術で担保すること。トレードオフになりがちな2つの要素を同時に満たすことが、導入の絶対条件だった。
藤本氏は「まさに『利便性』と『安全性』の両立が出発点でした。他のデジタル化ではなく、この形だから踏み出せたのだと実感しています」と話す。
ここから先の焦点は、顔認証によるデジタルチケットの仕組みをどうやって運用に落とし込んで、住民の体験をどこまでシンプルにできるか。そしてタクシー事業者や自治体の負担をどのように変えられるかにある。後編では、利用の流れを含む全体像を俯瞰(ふかん)しながら、協創を支える技術的な要点に加え、現場にもたらした効果と将来の交通施策への展望を掘り下げる。
(後編) “顔パス”移動支援はなぜ成功したのか 石井町×日立の顔認証デジタルチケットが描く地域交通DXの次の一手 はこちら>




