著書『生きがい』で日本文化特有の幸せの秘訣について著した茂木健一郎氏。テクノロジーで幸せを可視化するハピネスマネジメントを提唱する株式会社日立製作所の矢野和男。両氏が共通して取り組む研究テーマが「近未来社会における人間の幸せ」だ。私たちはAIという最新テクノロジーを、人間が持つの根本的な欲求である幸福感にどうつなげていくのか。第5回は矢野の取り組みに関する紹介を中心に、茂木氏がそれを深堀りするクロストークだ。
「第1回:AIがもたらすビジネス変革」はこちら>
「第2回:驚異的な未来予測理論からのバックキャスティング」はこちら>
「第3回:飛躍する言語AI」はこちら>
「第4回:人間に残されたフロンティアを語る」はこちら>
「幸せ」とは何か?
矢野
「私はこの20年ぐらい、データを使って人や組織をいかに幸せで生産的にできるかということを研究してきました。一所懸命働いて、利益を出して、それが世の中を豊かにして幸せになる。でも、この“幸せ”の感度が今かなり下がっていると思います。働くうえでいろいろ工夫や挑戦ができる、その充実感というのが幸せそのものですし、その工夫や挑戦が新たな利益となり、次の社会や仕事を作っていく。こういう循環を生むには利益追求だけではなく、幸せのことを考えなきゃいけないんですね。
でも、幸せって曖昧ですよね。実はこの30年ほど、幸福感についてデータに基づく学術研究が大量に行われています。多くの人は、仕事がうまくいくと幸せになれるとか、病気にならなければ幸せになれる、というふうに思っているんですが、実は逆だということがわかっています。幸せだと仕事がうまくいく、幸せだと病気になりにくい。幸せだと、営業は受注がより取れて、クリエイティビティは三倍も高く、離職率は半分に下がる。幸せな人が多いと会社の利益率は18%も伸びる。こういう定量的な研究がいっぱいあります。幸せって南の島でのんびりするとか、ラクでゆるい状態のことではないんです。仕事や人生の中で、前向きな精神的エネルギーを持っている状態こそが、まさにウェルビーイングな状態なんです」
前向き・後ろ向きというのは性格だから変えられないのでは?と思う人もいるだろう。しかし矢野氏は、車の運転のように誰でも練習すれば高められるスキルだと語る。そのスキルは次の4つ。Hope…きっと道があると信じる力。Efficacy…行動に踏み出す力。Resilience…困難なときも逃げずに立ち向かう力。Optimism…前向きに楽しむ力。
矢野
「この頭文字をとってHEROと専門用語で言いますが、これらは練習で高められるということが、いろいろな実験でわかっています。一方、人間にはなかなか変わらないところもあります。それは個性とか、性格と言われている部分で、BIG5という要素で表現できます。例えば外交性というのは、活動的で社交的ということですが、一方でちょっと押し付けがましかったりする。精神安定性の高い人は困難の中でもタフですが、他人の気持ちに鈍感だったり、つまり表裏一体なんです。こういう多様な性格をうまく生かすことが、幸せとか、いい人間関係をつくる根本にあるわけです」
では、いい人間関係とは何か?それを探るデータが示される。誰と誰がいつ、どれだけコミュニケーションをとったか。幸せだった日、悲しかった日が何日あったか。さまざまなデータをさまざまな職業・組織で1,000万日以上集めて解析し、生産的で幸せな人と、そうでない人に分ける。そこから極めて重要なファクターXが見えてきたという。
矢野
「人間関係にはコミュニケーションが大事ですが、それは単に量の問題ではありません。ある人が二人の相手と会話をします。でも、相手の二人は直接会話をしない。そうするとコミュニケーションはV字型になる。三人みんながお互いに会話をするとコミュニケーションは三角形になる。このV字か三角形かという小さな違いが、生き生きと過ごせるか、気分が落ち込むかの重要な分かれ道になるのです。V字型でいちばんわかりやすい例は三角関係です。嫁と姑のもめ事なども必ずV字型ですよね。仕事のうえで用件を伝えるだけならV字型でも可能なんですが、仲間としてコミュニティを形成するには、この三角形が必要なんです。会社の組織図って大抵、上から下へとV字型でできていますが、組織図どおりにコミュニケーションしたら不幸になります。横、斜めのコミュニケーションが必要なんです」
用事のない人の間に、いかにつながりをつくるか?
ある調査によると、日本の企業には熱意ある社員が5%しかおらず(ちなみに米国は32%)、145カ国中145位だという。企業における社員のエンゲージメントを高めることで、世の中を幸せにしようと発足したのが、矢野氏が代表を務めるハピネスプラネットだ。
矢野
「用事のない人たちの間に、もっと膨らみのある会話ができる場やつながりをどう創るか。それをITで実現しようというのが私たちの課題です。例えば、こんな仕組みです。オンライン上で10人ほどのチームを作り、そこに、個々人の考えや人柄が出るようなお題を日々配信して、1日5分程度コミュニケーションしてもらいます。チームの中で、今週はこの3人で話してねというグループをAIがアサインし、翌週は別の3人で、とメンバーを組み替えていく。さらに10人チームも2カ月ごとにAIが組み直す。こうしてどんどん人が繋がって、組織に横のつながりを生むわけです。これを今、150社ほどの企業で使ってもらっています。他者との出会いは、自分を再発見することにつながります。それは自分の考え方、大げさに言うと哲学を持つことだと思います。哲学を持ち、自ら問いを立て、判断する。これが人間にとって、まさにウェルビーイングな状態だと思います」
AIは自らの哲学を持てない。
矢野
「私はこの1年、生成AIにできないことって何なんだろう?と試行錯誤してきました。それってまさに、自らの哲学を持つということだと思うんです。生成AIを使っていると、なんだか当たり障りのない回答しか返ってこない。それは哲学がないからです」
では、AIに哲学を与えるとどうなるか?についても矢野氏は、実験を試みている。古典と心理学を掛け合わせた「易」という、矢野氏自身が信奉する考え方をChatGPTに学ばせてみたところ、詩的で心に迫る回答が得られたという。
矢野
「生成AIに力を発揮させるには、人の側に哲学が必要なんです。社会は人でできており、人は他者とのつながりを通して自らの哲学を持つ。それによって幸福というものが決まってくるのです」
矢野氏×茂木氏のクロストーク
茂木
「ウェルネスという分野に、データサイエンス的にアプローチしているのがとてもおもしろいですね。ちょっと一つお伺いしていですか?AIと人間がどう仕事をしていくかの前に、人間同士のアライメントの問題があると思うんですが、そこは評価関数的アプローチでは扱いきれない気がします。どうですか?」
矢野
「人と人の違いを乗り越えるには、当たり障りのないことだけ喋っていても不可能なんですよね。さきほどの三角形を作るというのは、例えば、居酒屋で、店主や隣に座った人とも話してみようってことです。要するに、衝突もあるかもしれないけど、自分に合う人とか近い人とだけつきあうのではなく、多様な人に触れていく。そうしないと必ず不幸になりますよと私は思っています」
茂木
「あと、AIのサジェスチョンによってスモールワールドネットワークを実現するっていうのもおもしろいと思いましたね。東京芸術大学の日比野克彦学長もアートを処方するという方法でウェルネスを上げる研究をやると言っていて。矢野さんの、AIが人と人のコミュニケーションを処方する、人間関係の薬みたいな、この概念もすごくおもしろいと思う」
矢野
「人間は本来、他者と協力して生きる社会的な動物です。でも現代って、人に頼ることは恥ずかしいこと、いけないことのように思われていて、それは人間の本能と矛盾している。だからテクノロジーでそれを作り直すっていうのは、私は非常に本質的な話だと思っています。」
茂木
「矢野さんの顧客は企業だと思いますが、彼らは組織のウェルビーイングを上げてほしいと思って相談をしてくる?」
矢野
「そうでうすね。あと多いのは、雇用が一気に流動化しているので、辞めないでほしいと。だから組織としてエンゲージメントを高めたいと」
茂木
「なるほど。それはアンケートのような調査ではなく、ビヘイビアルに(行動属性で)測定できるんですか?」
矢野
「いろいろ体に装着しなきゃいけないので、それが普通に可能になるのはもう少し先だと思います。最近私が注目しているのは、自然言語ですね。ネットワーク上の言葉の中には人のリアルな思いが溢れています。それらを使って、組織の状態をより多角的・客観的に測れるようにしたい」
茂木
「あなたどれくらい幸せですかと聞かれて点数をつけるんじゃなくて、本人も気づいてないような、無意識なものを定量化できたらいいですよね。矢野さんは元々物理をされていて、今はウェルネスとかリサーチの分野にいますが、これはどういう経緯で?」
矢野
「これまでは人間・文化・宗教といったものは、科学では解明できなかった。でも今はビッグデータというものがあり、科学の延長として解析できる可能性が出てきた。ニュートンの運動方程式って、速度と位置の組み合わせを時系列的に尺取虫のように予測していく手法です。ChatGPTがやっていることも、それとすごく似ています。ある単語列の次の単語を確率的に予測するのが、今の大規模言語モデルですから」
茂木
「僕は今日、矢野さんと何を話そうなんて考えずにここに来ていますが、人間をLM(ランゲージ・モデル)として見ると、性格や、背後にあるモチベーション、その人のウェルネスなどによって、出てくる単語の確率が変わりますよね」
矢野
「そうですね。ChatGPTって人間のある種のモデルなんじゃないかな。もちろん完璧じゃないけれど、人間がやってることの本質が、あのモデルの中に相当入ってると思う」
茂木
「全く同意見ですね。ただ、知り合いの作家や歌人、ラッパーに聞いてみたところ、彼らは全員ChatGPTは使えないって言うんです。AIというのはネット上の書き込みなどを含めたデータの平均なので、究極に凡庸なんだと」
矢野
「それはそのとおりだと思います。ただおもしろいのは、さっきちょっとお見せしたように、ある種の哲学を学ばせてバイアスを掛けることで、もう少し胸に迫ったり、いいなと思えるような答えが返ってはきますよ」
AIを調整するプロンプトエンジニアリング、ルイージ・ワルイージ効果、ハルシネーションなど、さまざまなキーワードについて、両氏は楽しそうに対話を重ねていく。そして話題は人とAIのクリエイティビティへと移っていく。
茂木
「核心を突いてると思ったのは、ウェルネスが高い状態が、人間のさまざまな指標を高度化するということ。つまり、上機嫌であることがクリエイティブティを生む。なんだか、いつも楽しそうにしているモーツァルトのようなイメージが浮かびました」
矢野
「人の創造性って、頭の中から出てくるというより、人間関係の中から出てくるという学術研究もあります。例えばルネッサンスの時代に、たくさんの天才たちがフィレンツェの周りで出てきたのは、あのコミュニティがあったからです。突然変異では、何人も同時には出て来ないはずです。だから人のネットワークが重要なんです」
茂木
「僕が(東京大学の)大学院に行っていたとき、近くに物理学者の小柴昌俊さんの研究室があったんです。ニュートリノでノーベル物理学賞を取る前です。もうめっちゃ大変な研究をしているんですが、小柴研のメンバーはみんなへへへーって楽しそうなんですよ」
矢野
「それは大事なことです。人は脅威やリスクを感じると、血管が収縮したり、心拍数や血圧が上がり、負の感情を生み出すモードになってしまう。今の企業はコンプライアンスだなんだという中で、リスク対応モードの回路ばかりが発火する人たちを増やしてしまった。チャンスを次々見いだしていく、ワクワクする回路が発火しない状態が、組織の中で常態化しているわけです」
聴講者との質疑応答のあと、両氏に最後の問いが投げかけられた。AIが進展していった世界で、人間に残される最も重要な要素とは?
茂木
「選択でしょうね。何を自分の価値基準として、どういう選択をするかっていうのは、人間のウェルネスに直結する問題です。だから僕は選ぶことだと思います」
矢野
「まず哲学、Philosophy。そして問い、Problem。そして選択、優先順位をつける、Priority。この三つのPを人間が磨き上げることが私はますます重要なことだと思います」
茂木 健一郎 氏
脳科学者
ソニーコンピュータサイエンス研究所 上級研究員
東京大学大学院 特任教授(共創研究室、Collective Intelligence Research Laboratory)
東京大学理学部、法学部卒業後、東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了、理学博士。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経て、現職。脳活動からの意識の起源の究明に取り組む。2005年、『脳と仮想』(新潮社)で第4回小林秀雄賞を受賞。2009年、『今、ここからすべての場所へ』(筑摩書房)で第12回桑原武夫学芸賞を受賞。近著に『クオリアと人工意識』(講談社)。IKIGAIに関する英語の著作が、世界31カ国、29の言語で翻訳出版される。2022年4月には、二冊目の英語の著作The Way of Nagomi(「和みの道」)が出版。
矢野 和男
株式会社 日立製作所 フェロー
株式会社 ハピネスプラネット 代表取締役CEO
博士(工学)、IEEE Fellow
1984年に日立製作所に入社し、中央研究所に配属。1993年に単一電子メモリの室温動作に世界で初めて成功。 2004年からウェアラブル技術とビッグデータの収集・活用やAIの研究・開発に力を注ぎ、350件を超える特許を出願。著書に『データの見えざる手:ウエアラブルセンサが明かす人間・組織・社会』や『予測不能の時代:データが明かす新たな生き方、企業、そして幸せ』がある。