「第1回:『デジタル化』とは、何をすることか。」はこちら>
「第2回:人間とコンピュータの間を埋めてきた『レイヤー構造』。」はこちら>
「第3回:DXは『抽象化』から始まる。」はこちら>
「第4回:『モノからコトへ』に欠かせない、『プロセス』の視点。」はこちら>
「第5回:ソフトウェアの秩序が、組織を規定する。」はこちら>
「第6回:D人材とX人材」はこちら>
「第7回:『アーキテクチャ』とは何か。」はこちら>
ヒトとモノとの作業分担が変わった
第4回で、「モノからコトへ」のシフトに欠かせない視点として「プロセス」を挙げました。実はもう1つ忘れてはいけない視点があります。ビジネスを、企業を起点とした一連のプロセスと捉えたときに、そこに顧客や従業員といった「ヒト」が位置付けられているかどうか、です。
地図アプリがなかった時代、わたしたちは紙の地図を購入し、自分がいる場所と行きたい場所を地図上で探し、そこに至る最短経路を見つけ出さなければいけませんでした。スマートフォンが普及し地図アプリが登場した今、わたしたちは「どこに行くか」「そこで何をするか」という判断さえすればよくなりました。目的地に「渋谷駅」と入力しさえすれば、画面上のどこに渋谷駅があり、現在地からどういうルートをたどれば何分で到着できるか、アプリが自動で処理してくれる。「モノからコトへ」のシフトです。
この話からわかるのは、第4回でも触れたように、モノとヒトとの情報処理の分担が変化したことです。自分が今どこにいるのか、そこがどんな地形なのか、目的地がどこにあるのか、すべてアプリが教えてくれる。
「モノからコトへ」、つまりUXとは、できる限りサービスの側で情報処理をすることで、ユーザーにかかる情報処理の負担を減らし、ユーザーが本来実現したいことに集中してもらうことにほかなりません。単に製品間のデータのやり取りを標準化することではないのです。もしあなたの会社が取り組んでいる「モノからコトへ」のシフトがうまくいっていないのなら、そこに「ヒト」が登場しているかどうか、今一度考えてみてはいかがでしょうか。
課題をコンピュータに理解させるには
「コトづくり」を突き詰めていくと、何が起こるでしょうか。例えば、ある休日、どこの街に行きたいかは決まっていないのだけれど、あなたは豪華なフレンチが食べたいと思っているとします。そこで地図アプリに「豪華なフレンチが食べたい」と入力すると、おすすめのレストランが地図上に表示され、そのどれかをタップすると、口コミやメニューが表示され、お店の予約までできる――そんな段階へと地図アプリは進化を遂げました。
「ヒト」が抱えるニーズは、行き着くところ、「今日一日、あるいはこの一年を充実させて生きたい」という思いに集約されます。ただ、それだけでは茫漠としていて、コンピュータには伝わりません。「笑いたい」「汗をかきたい」「ぜいたくな雰囲気を味わいたい」「涼しいところで過ごしたい」「友達と楽しく過ごしたい」など、自分がその日に得たい経験を、コンピュータにも理解できる言葉で伝えないといけません。第1回で、デジタル化とはコンピュータが理解できることと人間の課題をつなげることだ、というお話をしました。そのいわば最後のピースを埋めるためには、人間の課題つまり「人間が人生で経験したいこと」は、最終的には千差万別でユニークであるにしても、ある程度因数分解して伝えることができるのか、という問いに至ります。
人間が今日どんな心持ちで何を経験して過ごしたいかを、その人ならではの表現ではなく、だれにでも理解できる言葉に置き換えることはできないだろうか。例えばラーメンのスープに味噌、醤油、塩、豚骨があるように、人間のあらゆる感情、経験も、だれもが理解できる「単位」に分類できるはず――。それに近いことを考えたのが、実は夏目漱石でした。
小説を形づくる「F」と「f」
夏目漱石は著書『文学論』(岩波文庫)で、文学的内容には形式があると論じています。作品を読むことで読者が受ける全体感や印象を、さらにミクロの情緒の組み合わせに分解できるのではないか、というのです。仮に主人公のある一日の行動が書かれているとすると、主人公の経験したこと、そしてそこから受ける読者の印象は、例えば視覚的に「暗い」「どんよりしている」とか、皮膚感覚として「じめじめしている」という単位に分解できるのではないか。そういう形式の上に小説は成り立っているのではないか、と。
例えば、今日あなたが「イタリアにいるような気分で過ごしたい」と思っているとします。「イタリアにいるような気分」を分解するとどうなるか。気温、風の強さ、日差しの強さ、周囲の人々の態度、料理の見た目、匂い――それらの集合体が「イタリアにいるような気分」なのではないか。これが、漱石が文学を素材に提起したポイントだと思います。
漱石がたどりついた結論は、小説とは「F+f」という形式をとるというものです。「F」とは認識の焦点=Focusであり、「f」とは情緒的な要素=「feeling」を指します。あなたが得たい経験として「イタリアにいるような気分」というマクロな観念、つまり「F」があり、それに付随するさまざまな情緒として「暖かい」「そよ風」「明るい」「周囲にいる人々が陽気」といった「f」がある。もしあなたが『イタリアの一日』というエッセイを書こうとしたら、ここに挙げたような要素を組み立てようとするはずです。
同時に、こういった要素をバラバラな状態で経験したいという人はおそらくいないはずです。ラーメンを食べるときに、はじめに麺だけを食べて、次にスープだけを飲んで、最後にトッピングだけを食べても、ラーメンを食したことにはなりません。すべての要素が複合された状態を経験してはじめて、「ああ、おいしいラーメンだった」と思える。しかし、おいしいラーメンを作るには、それを要素に分解しなければいけません。そのことを「小説」という統合的な作品とそれを構成する要素の関係として漱石は論じたわけです。
小説もアーキテクチャも、要素の「組み立て」である
漱石の『文学論』は、DXを起こすうえで欠かせない「アーキテクチャ」と密接に関係しています。アーキテクチャとは、コンピュータから人間の課題に至る段階を、コンピュータのハードウェア、ソフトウェア、データ、ツール、アプリケーション、サービス、機能といったレイヤー構造で表現するものです。その上に、人間に近いレイヤーとして「UX」が登場します。顧客がサービスや商品に求めるのは、機能ではなく経験です。「今日一日をこういう感じで過ごしたい」というニーズがあり、例えば適切な温度設定のような機能は、その経験を実現するための手段に過ぎません。
人間が経験することは人によってさまざまで、どれもがユニークなように見えます。ですが、その経験を実現するサービスを提供するため、あるいはサービスに対するリクエストを伝えるためには、共通の言葉が必要です。人間のさまざまな感情を分解し、だれもが理解できる言葉に分類できることを、夏目漱石は発見しました。それぞれユニークに見える小説の文章も、「F」と「f」という要素に分解できる。その組み立てが小説であり、アーキテクチャにも同じことが言えるのです。
西山圭太(にしやま けいた)
東京大学未来ビジョン研究センター 客員教授
株式会社経営共創基盤 シニア・エグゼクティブ・フェロー
1963年東京都生まれ。1985年東京大学法学部卒業後、通商産業省入省。1992年オックスフォード大学哲学・政治学・経済学コース修了。株式会社産業革新機構専務執行役員、東京電力経営財務調査タスクフォース事務局長、経済産業省大臣官房審議官(経済産業政策局担当)、東京電力ホールディングス株式会社取締役、経済産業省商務情報政策局長などを歴任。日本の経済・産業システムの第一線で活躍したのち、2020年夏に退官。著書に『DXの思考法』(文藝春秋)。